タラウマラの村々にて・現地最終活動報告
「この7年間を振り返ってみて」
風の学校 石田恵慈

  北部メキシコの分水嶺であるタラウマラ山脈に暮らすタラウマラ族の村々で実施してきました、風の学校の水源開発プロジェクトはおかげさまで今期まで無事7年間も続けることが出来ました。
 1997年に現地からの要請を受けて田口さん、中田代表の一週間の現地視察に同行した当初はこの厳しい自然条件で水源開発プロジェクトが果たして出来るだろうかと半信半疑でした。実施しないで引き上げることも一時は考えました。しかしそれでも何とかして応援してみたいと思ったのは、その厳しい自然環境の中で慎ましく暮らす村人達の姿や、争いを好まない穏やかな文化や人情に触れ、また視察中に人懐っこくついて来る、ぽくぽくの土ぼこりで土の子と化した村の風の子達に心和まされたり、村人に今度着たら我が家に泊まってくれと握手されたその節くれだったごつごつの鍛えられた手の温もりに触れ、この人々との出会った縁を大事にしたいと思ったからでした。彼らの慢性的水不足を少しでも和らげることが出来ればと思い、力不足を顧みず、ひとつ無い知恵を絞って彼らの村々で一緒に頑張ってみようと思いました。
  プロジェクトは当初、井戸掘りによる水源開発を行いたいという現地の要請を受けましたが、地下水の元になる年間総降水量は450mmと少なく、またそれを蓄えるはずの大地も太古の巨大火山活動によって厚く堆積した亀裂の少ない岩盤とその上にわずかに薄く覆う表層土という井戸掘りの限界を感じさせるような厳しい現地の自然条件でした。
  1998年春から夏にかけての現地調査を終え風の学校に戻り、中田代表、宮崎師匠に調査結果を説明しメキシコ・チワワでの活動を実施したい旨相談し了承されました。また実施するに当たっては出来るだけ村人の身の丈に合った技術であることや実施の仕方、進め方なども村人の文化や習慣に出来るだけ合わせた無理のないものであることが大事であることをアドバイスされました。現地調査結果やアドバイスを踏まえ、技術的には集水、貯水の大口径の浅井戸掘りを比較的建設の可能性の高い村々で行って見ることにしました。

「1998年秋〜1999年春」
 第一期プロジェクトを実施するためにタラウマラ族の春のピントダンスという奉納踊りで有名なノロガッチという村に現地入りしました。現地カソリック教会のブラザー達の宿舎に居候し敷地内にある木工所と鉄工所で井戸掘りの道具作りをさせてもらい、その道具でアグア・プエルカ(汚れた水の場所の意)で村人達と初めての井戸掘りを行いました。
井戸掘りそのものは順調に完成しましたが、一時降雪が少しあり冷え込んだ日が何日か続き村人達が作業にまったく参加してくれなかったことがありました。たまたま山崎監督が
ドキュメンタリー「タラウマラの村々にて」の撮影に来られた時と重なり、村人達が出て   
来てくれるのを待ちきれず一人で黙々とセメント打ち用の型枠を外している映像が記録されていますが、ご覧になって違和感を持たれた方が多かったのではないかと思います。後日、カウンターパートの現地NGO代表のマヌエル・ガルシア氏にそんな天候の日に作業するとは思わなかった、そういう日は作業しないのが彼らの習慣だと教えられました。頭や口先では彼らの文化、習慣を理解しなければと唱えながら実際には全く理解していなかったことや、派遣期間という期限にばかり気をとられ、本来のプロジェクトへの取り組み方や考え方そのものがずれていたことを反省させられました。

「1999年秋〜2000年夏」
 第二期はバシゴッチ(「バシゴコ」という野生のハーブの茂る場所の意)で村内のわずかの地下水源に期待をして村人達と井戸掘りを行いました。しかし地下水層の水量不足のために完成した井戸が乾期に一時的に枯れてしまい一年間通して利用できないことがわかりました。苦肉の策として村内にさらに3本の井戸を分散して掘り、出来るだけ一つの水源に利用者が集中しないようにしました。
 この村ではタラウマラ族のマヌエル・パルマ家に長期居候させてもらいました。彼らの自給自足の暮らし方を見ていると彼らほどワイルドではありませんが私の子供時代の原風景として心に残っている郷里での農村生活に何か通じるものがあり懐かしさを覚えました。 時々食事の後などに男達がバイオリンやギターで奉納踊りの時の伴奏曲などを少し演奏して楽しみます。女達は家事をしながらそれをうっとりとして聞いています。とうもろこしのせんべいのようなトルティーヤに豆のスープだけが何日も続くという質素な生活ですが、心の面では豊かな生活を送っている人々だなと思いました。 また日々繰り広げられるパルマ家の親子の泣き笑いを見ていると、人間というのは人種、文化、価値観など表層部分では色々違っても基盤となる心の深層の部分では皆同じなんだなあとほっとさせられるものがありました。 その後このパルマ家とバシゴッチ村の人々には他の村々の現場でも最後まで色々な面で助けられることになりました。

「2000年秋〜2001年春」
 前回までの結果を考え、現地では建設可能な場所が限定され、さらに建設が困難な井戸掘りだけにこだわらず、可能性のある他の方法として現地ではまだほとんど行われた事のない雨水利用に取り組んでみることにしました。このアイデアに現地NGO活動家のチェコ氏も関心を持ち、コエッチ村(豊かな森の場所の意)のタラウマラ族の小学校のトタン屋根を利用して雨水利用システム建設のパイロット・プロジェクトを共同で実施しました。この現地初の雨水利用システムはその後雨期に入り順調に集水、貯水し小学校の飲料や給食調理用水などに利用され、その有効性が実証されました。
 このプロジェクトには貯水タンク製作の技術面でタラウマラ族のホセルイス氏が、そして資材輸送面で現地カトリック教会のパンチョ神父がそれぞれ協力してくれました。しかし私が日本へ帰国し一ヶ月後それぞれ殺傷事件と飛行機事故で亡くなられたことを後日知らされ愕然としてしまいました。また良き理解者であった友を突然二人も失い残念でなりませんでした。特にパンチョ神父は日頃何かと気にかけてくれ、タラウマラ族の祭礼や飲み会があるとわざわざ現場まで迎えの車をよこしてくれたりしました。三月に今期のプロジェクトを終了して帰国のためノロガッチ村を出発する日の朝、挨拶に教会に行くとちょうどパンチョ神父も州都のチワワ市まで飛ぶから一緒に行こうと愛用の小型機パイパーに便乗させてもらったのが最後の別れとなりました。酒が大好きな豪傑で村人の誰からも愛されたパンチョ神父はノロガッチ村の教会の祭壇に向かって右手に手厚く葬られ、墜落現場には村人の手によって記念碑が建立されました。再訪後、チェコ氏とまだ細かい機体の破片が散乱している墜落現場に行き、二人で持参した酒をタラウマラ族の儀式と同じように天にかざしてから舞いながら現場の四方八方に撒き、冥福を祈りました。パンチョ神父を兄貴のように慕っていたチェコ氏が泣きながら「チンガー、チンガー(ちくしょう、ちくしょう)」と言ってたたずんでいた光景が忘れられません。

「セネガル現場視察とアフガン水源確保事業に応援参加 2001年 4月、6月〜9月」
 帰国後の四月に一ヶ月間、村田時代から中屋時代の現在まで十年以上に渡って続いている風の学校のセネガル井戸掘りプロジェクトの現場を蓬郷氏と訪問しました。さらに中屋氏が前年度に応援参加していたペシャワール会のアフガン旱魃緊急水源確保事業に6月から9月までの三ヶ月間応援参加する機会を与えられました。 サハラ砂漠の熱砂が厚く堆積し川のない平坦な乾燥地、そこに井戸を掘り農業を営み暮らす、団結力のあるイスラム穏健派の人々の国セネガル。 長年続く内戦に加え、異常気象で水源であるヒンズークッシュ山脈の積雪が激減し旱魃に見舞われ、巨石の厚く堆積する熱風大地で井戸掘りやカレーズ掘り(地下水道)に格闘する敬虔なイスラム教徒の国アフガン。 そして争うことを好まず侵略者から逃れメキシコの北部に連なるタラウマラ山脈の岩盤地帯で分散節水型の自給自足の暮らしを長年営む少数民族タラウマラの人々。 同じ命の水を得るためにそれぞれの地域独特の自然、社会環境の中でそれぞれの工夫を凝らしながら取り組む姿を知ることが出来、学ぶことの多い貴重な経験となりました。

「2001年秋〜2002年春」
 前期に試験的に実施した雨水利用は好評でカソリック教会のシスター達からの要請を受けてチョギタ村にあるタラウマラ族の女性の職業訓練所の施設の屋根を利用して有機農業指導用菜園の用水や料理実習用水を確保するための大型の集水貯水システムを共同建設しました。さらに前々回の井戸掘りプロジェクトを行ったバシゴッチ村で最乾期の水量を十分に確保するため家庭用の小型屋根集水システムを各家庭に村人達と建設しました。これによって何とか村の年間の必要量を確保できるようになりました。

「第五期 2002年秋〜2003年春」
 さらに小規模灌漑や家畜用水を確保出来るようにと岩盤面を利用した岩場集水システムをバシゴッチ村の上流に一基建設しました。 雨水利用はやろうと思えば誰でも簡単に始められることです。しかしやってみると、「集水」「送水」「浄水」「貯水」の各場面でやはり技術的にしっかり押さえておかなければならないポイントがいくつかありました。現地の人々がそれらを理解し自分達で出来るようになって来たと判断しましたので後は現地の人々にまかせることにしました。

「第六期 2003年秋〜2004年春」
 今回は今までの現場であるグアチョッチ郡の南西に隣接するバトピラス郡内のヨキボ村(滝のある場所の意)です。前回までは井戸掘り、雨水利用の技術協力を行いましたが今回は、今まで村人達だけでは、測量技術が無かったりしたために開発が困難であった湧泉の水源開発を行いました。村の山向こうにある泉の水をパイプラインでタラウマラ族の集落まで送水したいが途中の地形が複雑で険しく難しいので応援してほしいとの要請を受けて村人達と水源調査、測量を行いました。3・5kmほど続く険しい斜面で村人も私も転倒したり滑落したりと大変なめに会いましたが何とかパイプライン敷設の路線を探し出し湧泉パイプラインを完成させることが出来ました。今回開発した水源一帯は近くに林道が出来る最近まで密かにドラッグが栽培されていた場所で、今までタラウマラ族の人々がその水源を利用することが出来なかったとのことでした。

「第七期 2004年秋〜冬」
 最終回の活動として再びグアチョッチ郡内に戻り、ラホチケ村(樫の樹の繁る場所の意)で前期と同様に湧泉開発の技術協力を行いました。湧泉から村まで4・5kmの地形が複雑で一度は故パンチョ神父の支援を受けて村人達だけでパイプラインの敷設を試みましたが失敗に終わった経緯がありました。村人のためにも、お世話になった故パンチョ神父のためにも何とか応援して完成させてあげたいと言う気持ちを強く持ちました。 
 現地地図やGPS、簡易測量器などを使いながら村人達と水源から村までを何度も踏査し、前回の失敗の原因を探した結果、水源から村まではどこを通っても必ず一度、水源の高度より高い峠を越えなければならないことが明らかになりました。さらにレベルやトランシットなどの測量機を使い詳しく測量して最も低い峠部分を確認し、新しい敷設路線を決定しました。 しかし最も低い峠部分もサイホン式で越流させることは出来るものの、安定的に自然越流させるためには、最低でも4m、理想的には6m低くする必要がありました。村人達と相談の結果、峠部分を道路のように開削することにしました。村人の意見で市役所の道路工事用のコンプレッサー車とエアーホース、削岩機一式をクリスマスまでの期限で借りることが出来ました。とうもろこしの収穫の終わった村人達の勤労奉仕で開削工事を続けた結果、何とか4mまで開削し、峠を越えて自然送水できることが確認されました。 残念ながら作業はここまでで今回は中断し、より安定的に送水できるための残りの2mの開削や峠から村までの1・5kmのパイプラインの敷設などの作業は村人達が自力で今春から作業を再開し完成させるということで彼らに後を託すことにしました。
 今期は活動期間中に乾燥地域では考えられない集中豪雨に何度もみまわれ、各地で涸川の氾濫で耕作地が冠水したり道路が寸断され、農業や交通網に大分被害がでました。私達の作業も何度も中断させられたり、資機材の運搬が途絶えたりと影響を受けました。タラウマラ族の古老の記憶にもこのような異常気象は経験が無いとのことでした。地球の反対側の日本でも2004年は台風の多発した年でしたが、何か環境破壊による地球規模の気候変動が始まっているような印象を受けました。
 今回をもってタラウマラ族の村々での協力活動を終了するに当たり、今まで使用してきた井戸掘り、雨水利用、測量用機材など一式を今後の水源開発に活用してもらうため、タラウマラ族の拠点であるノロガッチ村に寄贈しました。 
 現地を去る日の前日、毎回の活動に参加してくれたバシゴッチ村の村人達から私のために祭礼をするからと招待を受け、出かけてみると既にパルマ家の前庭に祭壇が出来てその上に彼らの貴重な山羊の肉が生贄として供えられ、村人達が待っていました。一日、彼らと一緒に奉納踊りをし、とうもろこしの濁酒「バタリキ」を飲み交わしながら別れを惜しみました。 気がついてみるとパルマ家に居候した頃は子供達は小さく、毎日土ぼこりだらけになって遊びまわっていましたが、もう長女のロサは看護婦さんの見習い中、私が後見人を引き受けさせられた長男のハビエルは父親のマヌエル氏よりも背が高くなりもう中学二年生、次女のマヌエラも背がヒョロリと伸びて小学五年生、肝っ玉母さんのカンデラリア夫人はなんと最近三女のカルメンを出産して家族が増えていました。 村人達と再会を約して村を去る時、今回で終了するんだなとようやく実感がわいてきました。後ろ髪を引かれる思いは残りますが今後のタラウマラ族の人々の健闘を祈りたいと思います。
振り返ってみますと、何ほどのことも出来ず、逆にタラウマラ族の人々に世話になり、助けられながら、貴重な勉強の機会を与えられたのだなと思います。
 ひとつ思い出すのは、初めての現地調査のとき、村々の踏査行の途中で谷からいっきに崖を登りメサ(卓上台地)の上にたどり着いた時のことです。私は眼下に広がる岩山群とまばらに生えているメキシコ松の風景を見て思わず、なんと荒涼とした寂しい景色だと思ってしまいました。でも同行していたタラウマラ族の少年の一人が私に「ミラ、ケ・ボニート!ベルダ?」(ほら見て、なんて美しいんだ!そう思うでしょ?)と言いました。自分の故郷をこよなく愛する感性豊かな少年の声がタラウマラ族の奉納ダンスの掛け声や笛、太鼓、バイオリンなどの音色とともに今も脳裏に鮮やかによみがえって来ます。
 帰国してみて感じるのは、私達日本を含む先進諸国は豊かさを追求するあまり環境破壊や核の脅威など負の遺産を山と築き上げ、なかなか軌道修正やブレーキをかけることが出来ないでいます。しかしその対極にあるタラウマラ族をはじめとする世界の多くの少数民族の人々は自然と共生する道を貫き歩んで来ました。それは時代の波に影響を受けて変質しつつある面はありますが、今その人々の伝統文化のよいところを学ぶべき時ではないだろうかと思います。
 タラウマラ族の人々が「ユーマリ」(自然への感謝や祈願の祭礼)、「コリマ」(互助の意)などの自分達の伝統文化に誇りを持ちながら無理なく自然に発展して行けることを心から願っています。
 経験させていただいたこの貴重な経験を無駄にすることなく、今後も彼らとのお互いの文化のよいところを学びあうことの出来る交流を何らかの形で行いたいものと考えています。
 不十分な内容の活動ながらもここまで継続して出来ましたことは、最初にこの協力活動の要請のお話を風の学校に紹介された田口さんをはじめ、色々のご支援、応援、また貴重なご助言をいただきました、風の学校の中田代表、宮崎師匠、協力会員の皆様、たくさんの方々の御蔭と厚く御礼申し上げます。
 メキシコ、そして日本の皆様、まことにありがとうございました。
hiroko yamazaki/juxta pictures HOME